田研便り 2006年5月号

「発達逆転現象」

財団法人 田中教育研究所 所長 杉原一昭

 最近子どもが変わったとか,見えなくなったといわれて久しい。何がどう変わり,われわれ大人はなぜ子どもを理解できなくなったのであろうか。そのような理解不可 能な子どもの状態はいろいろな面で見られるが,ここで取り上げる幼稚園児は,その 典型的な一例であるといえよう。

 「ちょっと変わった子どもなので見てほしい」と母親に連れてこられた6歳の男児 がいた。

 その子の発達状態を調べるために,初めに「田中ビネー知能検査」を実施した。ほか の問題は結構できていてIQは130以上あり,知能は順調に発達しているように思わ れた。ただ,5歳級の6㎝の3本の直線からなる正三角形の手本を見ながら描く「三 角形の模写」の問題で,いろいろ描いていたが,結局あらかじめ決められている基準 には達せず,「合格」にはならなかった。すると,その子は悔しそうに「ぼくは,さ んかくはかけないけど,さんかくすいのたいせきをだすこうしきならしってるよ」と 言ったのである。「ええっ!じゃあ言ってごらん」と言うと,意味がわかっているか どうかは不明であるが,「ていめんせき かける たかさ わる3」と正しく答えた のである。

 子どもの発達には一定の順序があり,それが逆になることはないという仮説は一 般に認められると思われる。子どもが走り回れるようになるまでは,はいはいをし, よちよち歩きの時期を経て,脚力がつき,バランス感覚を身につけることが必要であ る。ことばの発達は,声を発する時期,ことばにならない世界共通のなん語(バブリ ング;バウバウなど)の時期,「ママ」などという単語で「ママ,こっちへ来て」と いう意味を表す一語文の時期に続き,二語文,他語文の時期を経て,4,5歳になると文法的にもほぼ正しい話ができるようになる。よちよち歩きの前に縦横に走り回る ことはないし,一語文も出ないのに複雑な話をすることもないはずである(しかし, はいはいをせずに歩き始めたり,会話ができないのにワープロに会話文を書き込んだ りする子どももいたが,これについては後日取り上げたいと思っている)。

 模写という感覚運動的活動の後に求積公式の理解という抽象的活動がくるのが発達 の方向である。だから,三角形の模写ができないのに「三角錐の体積を求める公式」 が言えるというのは,発達の方向が完全に逆転していることを意味している。三角形 の模写に関しては,田中ビネー知能検査の2003年版の標準化データによると,5歳児 の通過率は58.2%である。小学校に入ってから正三角形,二等辺三角形,直角三角形 などを学び,三角形の面積を求めることとか,三角形の内角の和が180度であること を学ぶ。ましてや三角錐の体積を求める公式を習うのはもっと後で,中学校になって からである。
 ピアジェの発達理論によれば,発達には決まった順序があり,一般に認められてい るように,その順序が逆になることはないとされてきた。感覚で外界を捉え,運動反応で応える感覚運動期の後に,ことばでイメージを浮かべたり,頭の中で物事を考え たりすることができるようになる表象期に移行する。その表象も直観のレベルにとど まっていたものが,論理的(操作的)なレベルに達し,その論理も具体的なレベルに とどまっていたものが,現実にないことについても形式的なレベルで考えることがで きるようになる。この長い道のりは,ふつう,感覚運動期,直観的思考期,具体的操 作期,形式的操作期からなり,ピアジェの発達の四段階説として知られるものである。 先ほどの子どもではこの理論が通用しなくなったということであろうか。
 最近は言語発達に問題のある子どもも目立つが,一般にはことばの初期発達は早ま りつつある。例えば,田中ビネーで「一週間の曜日」を尋ねる問題があるが,1970年,1987年,2003年の6歳代の正答率は,25.0%,44.8%,69.3%と飛躍的に伸びている。 他方,オムツが取れるとか,ボタンをはめられるようになる 年齢や,形の模写が可能になる時期は

確実に遅れている。田 中ビネー知能検査における「ひし形模写」の正答率(6歳) を見ると,1970年,2003年にかけて,65.0%,52.0%と低下している。三角形やひし形の模写は,形のイメージを頭に思い浮かべることもかかわっているかもしれないが,主として は手先の微妙な感覚運動的供応によって可能になる(図1, 図2)。箸やはさみを使う,ひもを結ぶ,鉛筆を正しく持って 字や絵を描くなどすべて,感覚や運動を微妙に調節しなけれ ばならない活動である。

 図3にあるように,手や指先の活動に関与している感覚野と運動野は,脳皮質の広範囲な領域を占めている。したがって,指先の器用さの発達が遅れていることは,脳の発達が遅れ ていることを示しているのかもしれない。もしそうであるなら,ここで述べた発達逆 転現象は,子どもの一般的な発達に重大な影響を及ぼしていることになる。このよう な逆転現象は,テレビやコンピュータなどの電子機器が普及していることや,指先の 活動を含む身体活動が子どもたちの日常生活から急速に消えていることと深くかかわ っていると思われる。したがって,この逆転現象の影響を最小限に止めるには,映像 やことばによる情報収集ではなく,子どもに自然体験や身体活動などの実体験を豊富 にさせることが緊急の課題となる。

図3 体性感覚(左図)と体性運動反応(右図)に関係する皮質上の再現部位(ペンフィールドによる)

 その意味では,小学校の1,2年の社会と理科をやめ「生活科」を導入したのも,その後「総合的な学習の時間」をカリキュラムに新設したのも,重大で現実的な意味を持っていたのである。これらの新しい科目の導入には,紙と鉛筆による学習の限界 や弊害を除去し,体験・実習,実験・見学など,目で見,耳で聞き,手足や体で触り, においを嗅ぎ,舌で味わう,五感を駆使した実体験を重視することにねらいがあった はずである。今や学力低下が声高に叫ばれ,「ゆとりの時間」への批判とあいまって,「紙と鉛筆」でしか測れない「学力」向上が教育の最優先課題となった感がある。そ れでいいのだろうか。
 発達逆転現象は,単に「妙な子どもがいる」では済まされず,オタク,テレビゲー ム依存,虚構(ヴァーチャル)と現実(リアル)の区別がつかない,シミュラークル の世界に生きるなどといわれる「理解不能な子ども」を解明するキー・コンセプトになるのではあるまいか。


 ●財団法人田中教育研究所所長 杉原一昭 略歴

1966年 東京教育大学博士課程終了 教育心理学専攻

    横浜国立大学講師

1976年 東京教育大学助教授

1984年 筑波大学教授

1990年 筑波大学第二学群人間学類長

1999年 筑波大学学校教育学部部長

2001年 筑波大学定年退官

    東京成徳大学大学院教授 大学院心理学研究科科長

 学会活動

日本心理学会議員,日本学校心理士会会長,日本教育心理学会常任理事

 主な著書

「生きる力を育てる -心の教育とは何か-」田研出版

「現代しつけ考 -なぜ「当たり前」ができないのか-」日本経済新聞社

「変化を好む脳・好まない脳 -流動性知能を鍛える-」全日法規

「論理的思考の発達過程 -差と類についての思考の発達-」田研出版(博士論文)

 

「知能心理学ハンドブック 第1編~第3編」(監修)田研出版 他多数

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